南京大虐殺は無かった、杉田同志の質問状より転載します、

平成の御世、六日
  本日は、岡崎市で日本会議で
国民運動を戦っている
杉田謙一氏のブログから、素晴らしい
論文、質問状などを転載させて
戴いています。
 之で名古屋、岡崎市、豊橋・田原地区と、
愛知県下三箇所で、我々愛国者が、一気に
愛国運動を展開できる体制が確立できます。
 また、市会議員に我々の代表を送る
政治運動も展望の中に入ります。
 皆さん、愛知県において、来る
地方選挙には、名古屋、西三河、東三河で、
必ず一人以上は、候補者を立てる
準備を今からしよう。
 選挙資金も、候補者も用意してください。


 この質問状は、昨年十一月、岡崎市で
南京虐殺はあったと言う立場からの
告発演劇に対して、杉田氏が敢然と
祖国日本と英霊の名誉と、正義を護るべく、
決起し、その劇の実行委員会に突きつけた、
質問状です。
 精読して南京虐殺の中共大嘘を
論難してください。木っ端微塵に
シナの共産党のデマゴギーを
粉砕していきましょう。




質問状
三河実行委員会 実行委員 天野義裕殿

 「南京虐殺事件」を、あったことを
前提にする演劇会を開催する
貴殿に対し、以下の質問をいたします。
なぜに蒋介石、毛沢東は
生前一度も南京事件に触れなかったのか
 南京入場に際して
中国政府は三十万以上の虐殺が
あったと主張しておりますが、
当時の安全区において確保されていたのは
二十万人。
後には二十五万人まで増えてきているとされ、
また安全区国際委員会の
ラーべ委員長は公文書第一号(十二月十四日付け)にて
「貴軍(日本軍)の砲兵部隊が
安全区に攻撃を加えなかったことに
対して感謝申し上げる」と書いている。
そこにおいて三十万の虐殺が
あったとはとても考えられない。
その安全区に逃げ込んだ一万に
近き兵士が便衣兵であるが
その摘発で三・四千名の処罰をしたと
判断されるが、
戦時のこと、充分な調査がされたか否かは不明なるも、
戦時法に違反するものではない。
 中国軍司令官の逃走後の
無秩序な同士討ちの結果多くの
中国人兵士の死者が出たのも
また戦闘行為にて軍人が
多く亡くなったなどの悲惨な結果には
胸迫るものがあります。


しかし日本軍が虐殺を
したとの指摘は決して当たらない。
 蒋介石毛沢東とも生前は
南京虐殺に一度も触れていず、
また南京入場後九年もたって
突然東京裁判にて事件がだされた感がある


さきの衆院内閣委員会で
質問に立った戸井田とおる議員による
南京事件質問にて、
きわめて重要な事実が明らかにされた。
それは国際連盟第十八回総会
(昭和十二年八月十三日から十月六日まで)にて
南京広東に対する《日本の空爆を非難する案》を中国が提訴し、
委員会総会で採決されている。
翌十三年一月二十六日から
第百回期国際連盟理事会が開かれ
「支那を支援する決議案」が採択されていた。
しかし、にもかかわらず、
支那代表顧維きんによる南京事件提訴さえ
なされなかったとの説があったのでしたが、
今回の資料開示の結果わかったこと、

それは実際には、
中国代表はこのとき国連の行動要請を
していた事実。
しかるにあまりの荒唐無稽のプロパガンダに
理事会ですら、
さすがに一笑に付し無視した事実であります。

 演説の中で中国は「南京における旧日本兵による
無差別殺戮女性への
暴行市民殺害がなされ
米国教授の報告や書簡にもとづく
数として二万人が虐殺され
数千の女性が暴行された」と主張。
それに対して同理事会は、申し入れを拒絶。
当時、日本の軍事行動を「非難決議」として
採択した親中的理事会すら、
中国が訴える「南京虐殺」を、
政治宣伝と見抜き、却下。
対日非難決議にもその文言は入らなかった。
これらの事実に基づき考えられるのは
「南京虐殺論」は中国の政治的プロパガンダに
過ぎないと考えるべきではないのではないでしょうか。
それを反日に傾いていた国際連盟ですら
一笑に付した。
なぜなら南京には当時何百人もの全世界からの
マスコミが入っており、
虐殺に当たる事実はないからと判断するのが
妥当ではないでしょうか。
もし万を越す虐殺がほんとに
なされたとしたならば、
蒋介石が言わぬわけはないと思うが如何。
見解を求めます。


何百人のマスコミが
入っていたのに写真一つない
矛盾をどう解釈するのですか。
 フィルム撮影をしたマギー牧師も
東京裁判にて残虐行為を
証言していますが
「私が見たのは一人だけ」と証言。
揚子江岸の下関で死体を見たとあるが
何万ではなく三百から五百と言っています。
それがいかなる理由でなくなったか
(戦闘での死か他の理由か)。
死体があったからといって
まさか虐殺と言えるわけもありますまい。
 貴殿発行のチラシ中の「告白」文中の
殺された中国人の「生首」を
己の誉れの為にもって笑っている軍人の
写真を中国で見せられた旨の文がありますが、
証拠とされた写真のほとんど
全てが中国政府によって作られたものとの実証が
されているのをご存知でしょうか。
この渡辺さんという方も見破ることが
できなかったと考えられます。
専門的な知識なく罪悪感で見ていくと
誰もが驚きのなかで冷静なる眼を
失わされますので。
それだけ中国の戦略に乗せられ易いものです。
東中野氏の詳細な写真分析を
ご覧になりましたか。

それでも中国の作為を
読み取られないとしたら
その理由をお示しください。
 とりあえずの疑問点に誠意あるご回答を
必ず約束通り開催期日までにお示しください。
                               



再質問状
 
十月十一日になって電話にて
ご回答くださいましたが、
内容に付き、全く承知できませんので
改めて再度質問をいたします。
 電話にての回答の件は一については
「中国は内乱状態であり、
国内統一の混乱の中で忙しく
対日批判まで手が回らなかったと思われる」
とのご見解でありました。
三十万を越す虐殺の主張をしている
現中国政府が政権奪取した後も
毛沢東が南京に触れず、
蒋介石も触れない理由にはならないと
電話にて申し上げたとおりです。
とても納得できる説明となっておりません。
再度納得できる研究成果をお示しください。
荒唐無稽な虐殺論は
まだ構築できず、日本軍の不法行為が
なかったことを責任者として
当然知っていたからと
判断すべきではないのですか。


第二項について。
マギー氏のフイルムを見て
死体がのっていた。
虐殺を記録にとどめる資料も
発見されている。
証言者の話もある。
よって虐殺は会ったと私は考える。
との電話回答。
しかし残念ながらマギー氏のフイルムには
三十九の光景を映し出しながら、
虐殺を示すものは何も映し出されていません。
病院の様子や数体の死体の情景もありますが、
死体があるから虐殺だと
言う貴殿の論はまったく理論になりません。
戦闘にてなくなった兵士が
虐殺であるといえるはずもないでしょう。
そもそもマギー師は
東京裁判にフイルムを証拠に提出していませんね。
これを最初に虐殺論に利用したのが
国民党顧問ハロルド・ティンバーリ記者でしたね。
字幕説明を加えて作り変え
加工編修しなおしたのですから
貴殿が見られてその雰囲気に
呑まれたのは残念ですが、
ふ通に見てみれば、
証拠になりえないのは明らかでしょう。
裁判での反対尋問で、
永く南京にて日本の不法行為に
目を光らせていたマギー師が
実際目にした殺害は一人だけと証言。
中国政府の言う数十万の虐殺の
主張はどうなのでしょう。

ティンバーリは国民党宣伝部が工作員として
使っていた人物であることはご存知でしょう。
べイツ師もフィッチ師もティンバーリ師とともに
「宣伝本」を書いた人ですね。
ドイツ大使館の公文書綴りが
発見されたといわれるが、
そのジョン・ラーべなるジーメンス社南京支社長の
「三万の死体」説も伝聞記事であり、
南京特務機関丸山進氏によれば
埋葬遺体は一万四・五千。
戦闘での死体であるという。
貴殿の言われる虐殺証拠とは
なりえないものです。
電話にてご説明したとおり
他誌掲載写真も東中野教授はじめ、研究者に
虐殺があったと主張されるならば、
納得できる根拠を提示すべきです。



 「虐殺はむごたらしい殺し方でもある。
数もそうである。
千人以上は虐待死させている」
との見解をとり、
虐殺があったといわれましたが、
それは推測であり証拠ではありません。
マギー師証言やフィルムを根拠に
してみえましたが、
一人の殺害現場をしか見ていなかったと
いっており、
その殺害理由も明らかでない。
安全地帯に逃げ込んだ逃亡兵は
数千から万とされる。
彼らは「捕虜」でもなければ市民でもない。
便衣兵であり、戦闘員の資格四条件を
悉く踏みにじっているため、
いかなる権利も有しない不法戦闘員。
とらえられても国際法上の保護は
得られないのは自明。
捕虜になりえないのである。

東京裁判においてすら
捕虜処刑を明言する欧米人は誰もいなかった。
日本が残敵掃蕩の際の処刑について
世界の誰も非難していない。
不法でも残虐行為でもない。
銃殺等が残虐な殺害方法だと言う意味で
虐殺と言われるなら、
論外であり、
犯罪者の死刑廃止論でも論じられて
おられればよい。
南京事件とは無関係である。     


 中国政府は三十万を越す人間を
日本軍が殺したとキャンペーンを
張っております。
その人数には意図的重大な過ちがある
ことを貴会もお認めになっていると
判断してよろしいでしょうか。
中国のためにする論を批判する立場に
立たれると
解釈してよいのでしょうか。
そうでないといわれるのならば
虐殺があったと主張される
その規模についても、
さらにその推測を裏付ける根拠を
示さなければ無責任極まりなきことです。
 一週間以内に文書でご回答ください。



なおとりあえず南京事件について
私の見解を申し述べます。(再度提出前回同文)
 南京事件の発端は第二次上海事件。
十二年七月七日には盧溝橋事件が起こり、
これが当時北支といわれた中国北部に拡大し、
さらに中部に飛び火し、
上海での戦闘に発展。
渦中を根拠地にする蒋介石としては
北まで直轄軍を遠征するのは
不利であり上海に派兵。
五年前の第一次上海事件後、
日中間で停戦協定が結ばれ、
非武装地帯が造られたが、
この地に中国はドイツ人の軍事顧問団をいれ
トーチカ陣地を築いた。
ここには日本は海軍の陸戦隊が
数千程度しかいない。
中国兵ははじめ二十万後八十万。
そして八月十三日日本の陸戦隊の本部に
攻撃がかけられたのだった。
わが国は在留邦人を保護するため
応急動員をかけ第十一師団と
第三師団の二個師団を八月末から
上海に送り込んだ。
しかし上海の防備は堅固にして被害続出。
第九第百一第十三師団の増派となる。
逐次投入の不利な戦略により被害続出。
十一月になって十六師団を投入。
背後を突き日本から新たに
杭州湾に三個師団を投入。
敵の退路を断った。
結果中国軍は総崩れとなり、
首都ナンキンに向けて退却を始めた。
日本軍は当初南京を攻める予定は
なかったのでしたが、
中途半端な停戦では禍根を残す。
決定的な勝利を収むべしとの
国内世論に押されて
最後には参謀本部も押し切られて
南京攻略が決定される。
予定された行動でないため
弾薬はかろうじてあっても食料がない。
糧を現地で調達する。
略奪するなど悲しむべき状態となる。
方や蒋介石軍は南京包囲を恐れ
南京放棄論と抗戦論が戦わされたが、
唐生智の抗戦論を採用。
彼を司令長官として残し、
蒋介石は十二月7日に南京脱出。
南京は攻防戦の目標地となった。
逃げられない人たちは城内に残る。
難民も流れ込んでくる。
外国宣教師たちの手により、
安全区が設定された。
南京市長馬超瞬は残留市民二十万人に
対し国際安全区に移住すベしと命じた。
日本軍は認めなかったものの、
これを尊重し、攻撃一つしなかった。
このことはラーベ委員長より
感謝の書簡が出されていることでも
明白である。
南京市民は安全が確保されたのである。
十二月十日頃から本格的な南京を
巡る攻防戦が始まったのであった。
十二月12日には激戦の末、
日本がほぼ南京城を包囲できた。

その際中国側は南京郊外に火を
つけ農家などを燃やし撤退した地域を
徹底して破壊した。
この焦土作戦遂行は日本軍でなく
中国軍であることに注意したい。
 
司令官の唐生智は十二日夕方には
真っ先かけて長江をわたり
逃げてしまったので
指揮官なき軍は全滅に近い被害を受けた。
逃げる味方兵を城門の上から
機関銃で撃つと言う大変な同士討ちが起きた。
は江門付近は死体の山だったと言う。
これを「大虐殺」の証拠とされてしまっているが、
その批判は全くあたらない。
 揚子江を筏で逃げる中国兵は
途中筏がばらばらにない溺死。
逃げ遅れた何千人の兵は安全区に
逃げ込み便衣兵となる。
国際法で禁じられている便衣兵(ゲリラ)と
認定されてつかまる。
本来はこの便衣兵は安全区の管理者が
武装解除させ、
戦争が終わるまで置いておくか、
捕虜として引渡しの義務があるのであるが、
人数や能力からそれができないのみならず、
敗残兵をかくまりたい、
保護したいとの思いがある。
日本との間にトラブルが起こり、
反目が起こり、
日本軍に不利な報告をすることとなる。
結果敗残兵の掃討に強引さが出て、
かなり杜撰な餞別となってしまったと
考えられる。
兵と誤認されたケースも出たであろう。
便衣隊の処刑はおよそ三・四千人であろうと
推測される。
しかしこれはあくまで戦闘行為。
虐殺には当たらない。
手榴弾など武器を相当数隠し持っていたし
反攻のうわさで持ちきりであったため、
戦闘目的であると解釈されても致し方なきこと。
公開にて処刑したことが
「虐殺」の宣伝文句に
利用されてしまうのである。
捕虜として扱うには
ハーグ条約その他で一定の資格が
あるとされている。
投降し、かつ受け入れ側が
捕虜と認め捕虜収容所に連行して
初めて捕虜の扱いを受ける。
 逃げ惑う兵が揚子江を渡りきれずに
逃げ遅れ幕府山の山麓に
吹き溜まりのように集まっていた。
捕まえたのは第十三軍の六十五連隊。
しかし一万四千七百七十七人の
武装した敗残兵を
捕虜とできるわけがない。
自軍より十倍ほど多い捕虜を
扱えるわけがない。
殺戮すべきを、偲びず、
十六日十七日の二回にわけ揚子江の中洲に
逃がそうと連行する途中捕虜暴動が
起こりそのうちの相当数を
殺してしまったのであったが、
明らかに故意の殺戮でなく
突発事故である。
これらはしかし虐殺では断じてない。
戦闘行為である。
 

南京市内の不法行為はほとんどない。
ラーべ委員会の詳細な記録によれば、
南京市における殺害事件は四十九件。
暴行事件四十四件となって
おりそのうち一件は明らかに合法とされている。
 無論日本も勝つか負けるかの
決死の戦闘の真っ最中のこと。
犠牲者も数万を数える悲惨な
ものであった。
しかし断じて何万もの不法虐殺を
したなどとあらぬ
キャンペーンを許してはならないのは
明らかである。



 

以上の考察の結果、
南京での不法行為はきわめて少なく、
両国にとって不幸な歴史ではあるが
虐殺などと非難されるものではなく
通常の戦闘行動の結果とみなされるものである。
ちなみに入場に関わられた方の
ご意見は軍の名誉にかけて
虐殺とされる好意は
なかったとされるものであります。
 貴殿が真面目に政治的意図を
離れて実証的に南京を語る方で
あってほしいと願うものであります。
無責任な発言にならなきことを
強くねがいたい。
間違っても中国政府の戦略に
毒されなきことを強く要望します。
日本人の感性をお持ちいただきたいとは
申しません。
しかし貴団体は戦前にて事実追求の必要性を
痛感したならば、
今こそ客観的に資料を検証し、
その上で判断されないと
戦前の間違いを繰り返すことになることを
老婆心ながらご忠告申し上げます。

参考に
松井石根(いわね)
    陸軍大将・上海派遣軍司令官
 松井石根は日露戦争に中隊長で参戦した後、
陸軍大学に進み主席で卒業。
通例では欧米駐在武官になるところだが、
松井は根っからの日中友好論者で、
自ら中国を希望した。
 軍内部の「下克上」の風潮が強まる中、
軍機粛清を唱え、
軍内部の派閥抗争や、
軍人の政治関与を戒める松井は、
一世代下の青年将校からは古臭いおやじとして
嫌われ、敬遠された。
派閥抗争の激化は遂に
永田少将刺殺事件まで引き起こし、
松井は軍長老として責任を取って一旦現役を退く。
 だが支那事変の勃発で
松井は現役に戻され、
上海派遣軍司令官となり上海・南京を陥落させた。
南京戦の戦死者慰霊祭では
日中の戦死者を共に
慰霊しようと提言したが、
実現できなかった。
そこで帰国後、中日の戦死者を共に祀る
「興亜観音」を建立。
近くに庵を建てて住み、
毎朝観音経をあげて菩提を弔い、
隠棲生活を続けた。
 そんな老将軍が「A級戦犯」
として逮捕された。
その罪状の名は「南京暴虐事件」
俗に言う「南京大虐殺」である。
 現在中国は犠牲者数を
三十万人と主張するが、
日本でこの数字を信じている人は
まずいない。
三十万人といえば原爆二個分である。
しかも当時の南京の人口は二十万人だったのだ。
 では、実情はどうだったのか。
真相に迫るには東京裁判で
どのような立証がされたか検証すればよい。
出廷した証人九名、
宣誓供述書や陳述書による証言一七名、
その他の文書十一通、以上合計三十七の
証言・文書が、検察が提出した全証拠である。
ところがこれらの「証拠」は
怪しいものばかりである。
証言は裏付けの無い伝聞が多数。
体験談も、数万規模の虐殺が
行われたはずなのに、
同一現場からの複数の証言が一組もなく、
なぜかほとんどの殺戮事件で、
常にたった一人の人間だけが、
妙に似たような方法で生き残り、証言している。
 だが東京裁判では証言の真偽に
関する検証は一切行われていない。
そもそも東京裁判には「偽証罪」がなかった。
中世の魔女狩り裁判と同じだったのである。
 検察は冒頭陳述で
「組織的・計画的犯行」と主張したが、
その証拠は遂に提出できなかった。
つまり仮に南京で虐殺があったとしても、
それはアウシュビッツや広島・長崎とは
全く性格が違う、個人的暴発的反抗にとどまるのである。
 とにかく検察は物的証拠を
一点も提出していない。
写真一枚すらない。
裏図家の取れない証言と、
作成者のわからない資料、
それが証拠の全てだった。
つまり、南京で虐殺があったと
確かに立証しうる証拠は
何も提示されていないのだ。
 ところが、松井は南京の
暴行事件を完全には否定せず、
「興奮した一部若年将兵の間に
忌むべき暴行を行ったものがあったらしく」と、
一部を認めた。
ただしそれは何処の占領地でも
起こる軍規違反の犯罪のことであり
検察が主張する「大虐殺」までは
決して認めていなかった.
それでも松井が認めた少数の
「暴行事件」と検察の言う「大虐殺」の
区別はよく伝わらず、
反証が弱いと言う印象を与えてしまった。
 判決は弁護側の証拠をほとんど却下し、
検察側証拠はほぼ全てを採用し、
指揮官の松井に虐殺を止める友好な
対策を講じなかった
「不作為責任」があるとし、死刑を言い渡した。
 松井は最後まで、自分がナチスに匹敵する
「人道に対する罪」をきせられたとは
思っておらず、
ただ、ただ明治の日本軍を知る古い軍人として、
僅かな軍規の弛みも許しがたく、
痛恨の一大事と認識していたのだ。
だがその潔癖さがかえって誤解を生み、
「大虐殺」を認めたかのように思われてしまった。
 松井は生涯を日中友好の
為に尽くした人物であり
その礎石となるべく、
従容として死についた。
それなのにその御霊が
靖国神社に祀られている事を
中国が日本攻撃の道具に使うとは、
何たる無情、何たる皮肉であろう。

この質問状は共同主催の九条の会にも
出したが全く回答なく、
だんまりを決め込んだままである。
 岡崎に95歳になられる太田様は
南京入場の際部隊を代表して参加された方、
「誰がこんな作り話を言っているのかと
憤慨して見えますよ.
かくしゃくとしてみえます。
真面目な研究者なら話を伺うべきでしょうに。
ちなみに九条の会の関係者と思われる
岡崎市会議員の情宣カーに9条が
印刷してありますが、恥ずかしくも
9条の条文が間違っているまま。
ようは読んでもいないし、
覚えてもいないのですね。
ばからしくて忠告もしていませんが
こんな共産党だからばかにされるんでしょう。
情宣カーの周りに活動家が
一杯いても誰一人9条を知らない証拠です。
もう私が発見して以来半年以上たつのにね。
九条改正するんだなあと
いつか使ってみたくなりますよ、この事実。
 








南京大虐殺は、中共のデツチあげだ、岡崎の杉田同志は、断固抗議した、「南京の真実」の映画を皆で見よう、

  平成の御世、六日
 南京大虐殺のデツチアゲを断固否定し、
木っ端微塵にしよう。
 我々は、あらゆる活動を通じ、情宣します。
杉田同志の戦いの論文を転載します。

南京の真実」の愛国映画を愛知県で、
同志一致協力し、映画界を大成功させよう、
皆さん、力を資金を動員を
 貸してください、総結集してください。


  杉田氏のブログより、

 南京入場は通常戦闘行為である     
 大田正雄氏(九十五歳)
   岡崎郷友会長にうかがう。
 本日、大田様に南京入場の様子や軍隊謙を伺いました。


 南京入城時、第三軍三個中隊を指揮する片桐部隊
(独立部隊)の第一中隊松田隊第一小隊第一分隊所属.
伍長であった。
大田氏は岡崎郷友会を率いてみえ、
さまざまに国のためにご活躍いただいている方です。
若松町にお住まい。
 最初の入隊は昭和八年、
一月二十日豊橋十八連隊。
三月に満州ハルピンに派遣される。
青年学校を出てみえるので一年六か月で除隊になるところ、
除隊延期となり二年四ヶ月間勤務
十年十一月除隊、一月五日に岡崎に帰る。
 二度目の従軍は昭和十二年、
八月十五日。名古屋の三師団に応召される。
ご結婚は同年二月二十八日。
娘さんが六十九歳で先月お亡くなりになったが、
誕生日は十二月十二日。
今月一日に三十五日法要を行なわれた。
悲しみのときに恐縮ながらもお話を伺ったわけです。
 娘さんは、
何と南京入場の時にお生まれになったことに
なります。
 徴兵後、上海に派遣。
敵前上陸は大変な激戦。
同郷の若者が相当数戦死された。
掘った塹壕に死体が累々と積み上げられた
と伺い誠に申し訳なく深く感謝した。
 上海攻略の後、南京攻略.
ほぼ一週間ほどで、再度進軍。
大別山を越え、こし、杭州、羅山、
新陽そして雲夢まで行かれた。
南京攻略の後も武関三鎮攻め、
長沙作戦へと向かったが、
途中で雲夢まで行った時、
陥落の報を受け南京南の応山の駐屯地に
下がった。
この間一ヵ月ほど。
更に作戦体制をととのえ、
進軍。舟(はしけ)で機雷を避けながら進撃。
しかし補給が続かず、中止。
他の部隊は重慶まで行ったが
片桐部隊は重慶の手前にて後退し、
応山にて召集解除となる。。
 南京攻略は南京の南二十キロ地点鎮口
(?)の寺にて準備、駐屯。
ここで阿倍仲麻呂の「三笠の山に
いでし月かも」の碑を見て驚いた。
 南京城には二十ほどの門がある。
さすが敵の首都だけにものすごい激戦となる。
シナ兵は七つの師団からなる
南京保衛軍を城外に配置し
要塞を作って防御する。
 わが軍は十日十二時の
和平開城勧告期限を過ぎても降参しない
シナ兵に対して総攻撃を開始。
遂に十二日、東京のわきざか部隊が
西門を破って初の入場。
われらは武定(ぶてい)門を破る。
頑丈な鉄扉で手榴弾ではびくともしない。
ここは橋を落とされ道がない。
堀を船で渡っての攻撃。
砲弾を城門めがけて打ち続けル。
敵は城壁の上から必死に打ち続ける。
しかし遂に門を破り入城した。
 中山門が一番大きい。
敵兵は城に集結し、砲撃をなす。
迫撃砲に対してこちらも砲撃。
入城しても敵兵は白旗を掲げることなく
着替えて市民にまぎれて銃撃。
わが軍も応酬。
便衣兵なのか市民なのか判別のゆとりなく反撃した。
上官は十八連隊藤田大佐です。
遂に南京城陥落。
十二月十三日。松井石根大将を
お迎えして入城式がなされた。
大将は部下を引き連れて中山門から
入場された。
およそ一週間ほど滞在して、
また駐屯地たる応山に戻る。
城内には激戦のため戦死者は数多くいたが、
入城してからは敵部隊は
ほとんど揚子江川に敗走し、
反撃はほとんどなかった。
揚子江に逃げた敵兵は船の沈没で
相当の被害が出た。
何しろ矢作川の三倍以上の広さで
水かさも深くながれも急。
とても泳げはしない。追撃もできない。
作戦を立てて進軍作戦が命令されるまで待機となる。
 上海戦では大変であった。
食料もなく、現地調達するしかなかった。
食べなければ死ぬわけだから。
しかし一人では歩けない。
必ず威嚇射撃をしていかねば
いつ何時隠れた敵兵に襲われるか分からない。
事実、食糧集めで味方が
三名襲撃されて殺されもした。
 三度目の動員は十八年。名古屋二部隊。
ラバウル要員であったが待てども
船が確保できず。
名古屋清水口の第一中に駐屯。
瀬戸線沿線の補強業務。
鉄橋の補強などをして出行をまつ。
五月十五日か運命の日。
八百機ほどの戦闘機が来る。
当時下士官、分隊長。
展望台にて看視命令を受け業務に就く。
十時ごろ空襲警報。
五から八機の機影を後者の上にて
発見。
敵は十二時から二時までものすごき勢いで空爆。
市民を必死に防空壕に避難させる。
二千人ほどの市民を避難させる。
昼間なのに黒い煙で空は真っ暗。
燃え盛る火により地上は真っ赤となる。
校舎にも二十発以上の焼夷弾が落ち、
西側の炊事場に火の手が上がる。
兵を使い必死に消火する。
けさなければ全滅焼け野原となったであったろう。
すむところがなくなる。
三時頃終結し見れば15個あったトイレは
影も形もない。
校舎は天井が落ちて中の武器もうずまっていた。
翌日、毎朝点呼をとる際に必ず
大きく見えた名古屋城がない。
これにはびっくりした。
 浜松も艦砲射撃を受けた。
いよいよ敵上陸、本土決戦は近いと部隊は
駿河へ向かうことに。三個中隊およそ
四百名で徒歩にて移動.
岡崎山中小にて宿泊。豊橋高師小学に。
二十年七月七日だったか空襲警報が発令。
南西からB二九が八機編隊三隊になってくる。
仰角三十五度のところから爆弾投下すると
ここに落ちる。
頭の上ではないですよ。
校庭にいた部隊は動けば標的にされる。
すぐ気付かれるから。みな仰向けになって寝ていた。
良かった通り過ぎたとほっとした途端。
豊川交渉が炎に包まれ黒煙が上がった。
やりやがった。被害が心配であったが、なんともしがたい。
 二川から列車で駿河藤枝へ。
大井川小で本土決戦に備え、
駐屯陣地構築をなす。
多い町には特攻基地があり、
飛行場では海軍の飛行訓練がなされていた。
終戦を迎え残務処理をして九月七日帰省。
今次の戦争でこの小さな部落から十五・六人が
出征し、七・八人が戦死。内妻帯者は二名。
 軍を無茶に言うが悪者扱いはなんとも情けない。
赤紙一枚で行ったのに。
志願でもないのに批判されて。
南京虐殺などあるわけない。
松井岩根大将の南京入城式では、
部隊を代表して参列させていただいたが、
現地にいたものとして、何が、
誰がこんなウソをつくったのかわからない。
参加した全員がそういっていますよ。 以上。





岡崎の同志が、戦っています、連帯と共同の戦いを展開しよう、愛知県下で祖国防衛の戦いを大展開せよ、

  平成の御世、六日
 岡崎の杉田同志のブログから、転載します。
ブログは、「草莽の記」で検索ください。
愛国の情あふれる内容です。
 西三河にも、遂に我々愛国者の拠点が
出来たわけです。

  杉田謙一氏の「草莽の記」より転載



 参政権問題への取り組み


                    平成20年2月25日
岡崎市議会議長
山本雅宏殿
                    
                          杉 田 謙 一
永住外国人への参政権付与を日本国政府に求める意見書を
       採択しないよう求める陳情書

陳情の趣旨
 現在、在日日本大韓民国民団及び
その賛同者が永住外国人地方参政権付与を
政府に求める意見書提出を
全国の自治体にはたらきかけています。
 また、民主党小沢代表は
韓国李明博新大統領に対して、
参政権付与の意向を表しています。
 しかし、たとえ地方といえども
参政権を外国人に付与するのは
明確に憲法違反であります。
 岡崎市議会においても国民の最大の権利たる
参政権を守るべく、
外国人参政権付与を要求する決議を
あげないようにしていただきたく陳情いたします。

 陳情理由。一 日本国憲法では参政権を
国民固有の権利(第十五条第一項)としており、
地方参政権もその自治体の住民が
選挙することになっています。
(第九十三条第二項)そして平成七年二月二十八日の
最高裁判決で
「住民とは日本国民」を意味するとしています。
二 韓国では平成十七年、
在韓永住外国人の一部に地方選挙権を認めました。
相互互恵主義にのっとって、日本でも、
との働きがありますが、韓国で日本人が
参政権を得たのは僅かに五十一人です。
 現在日本にいる永住外国人は
七十万人であり全く互恵といえるものではありません。
しかも2億円もの韓国への投資をした人のみ
とも言われます。
互恵主義に基づき、日本への投資を
2億円と定めるとしても、
かえって差別を与えるものとなりえます。
三 基本的人権であるからとか
納税しているからとかの主張がありますが、
納税は社会的サービスの対価
としてのものであり、
選挙権とは無関係です。
そもそも納税額によって選挙権を与える
制限選挙制度は過去のものです。
四 国政でないといえども治安・
教育・安全保障など国と地方は密接に
つながっており無縁ではありません。
慎重審議の上、付与決議をあげないよう陳情いたします。          











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